不良とわたし①


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前回の記事で書いたように私はひ弱な人間である。特に小学四年生までは引っ込み思案な性格もあり友達も少なかった。当たり前だがやんちゃな同級生にはほんとにビビっていた。ただ避けても避けられないこともある。今回は私の幼稚園でのお話。

 

私の幼稚園は田舎にあるのでグラウンドがアホみたいに広い。というより通っていたのが幼稚園から高校までずっと田舎だったので、都会特有の運動会や体育祭を学校以外の他の施設を借りて行うなどということを経験したことがない。自由時間は当然そのアホ広いグラウンドで遊ぶ。

当然のことだが幼稚園は小学校や中学校に比べて遊具が充実している。ただ何せ私の通う幼稚園はグラウンドがアホ程広いので遊具も幼稚園とは思えないほど充実していた。椅子が変に豪華なブランコ、汽車を模したアスレチック、SASUKEの奴を持ってきたのかと疑う長さのうんてい、どう遊ぶかわからない馬の乗り物、砂漠みたいな砂場、鉄棒は30個は越えていた。他にもまだまだあったが、その中でかなりの人気を誇っていたのがトルネード滑り台だ。ソフトクリームのような形をしており、くるくると回りながら滑り落ちていく。想像してほしい。明らかに楽しいのだ。まして3歳から6歳の子供何て笑いすぎておしっこ漏らしてしまうだろう。

 

幼稚園にもカーストというものは存在する。その中のトップに君臨するのがガキ大将という奴だ。私が年中さんになった頃、トルネード滑り台はガキ大将2人によって占拠された。ミナミ君とトシキ君だ。彼らは年長さんで身長は少し大きい程度だった。ただなにより力が強かった。彼らに歯向かう者はその圧倒的なパワーを振りかざされ、当然のように泣かされていた。先生の言うことも聞く様子はまるでなく、諦められていたという感じだ。だからトルネード滑り台が彼らから奪還されることはなかった。彼らは二人で毎日のようにトルネード滑り台を滑っては登り、滑っては登りを繰り返していた。

 

今も鮮明に覚えている。その日もいつも通りミナミくんとトシキ君は滑り続けていた。彼らの滑りのスタイルは二人同時だ。ミナミ君が滑ると追いかけるようにトシキ君が後ろから滑る。ただなにより覚えているのが、彼らは滑り落ちる際

 

「サイアク、サイテイ、サイアク、サイテイ、サイアク、サイテイ、サイアク、サイテイ」

 

と言い続けながら二人で滑り落ちていく。パート分けをするとミナミ君が「サイアク」、トシキ君が「サイテイ」パート。二人で交互にサイアクサイテイと掛け合いながら滑り落ちる。滑り終わるとピタッとその掛け合いをやめてまた上へと登っていく。

幼稚園での1番の記憶と言えばこれなのだ。なぜか忘れられない記憶というのは誰しもあると思う。私の場合はこれだ。

 

そんな二人であるが、いつも水筒をぶら下げて遊んでいた。そしてその水筒にはポケモンパンのデコキャラシールが貼られていた。当時私の幼稚園では大流行していた。男の子女の子関係なくみんな水筒にはポケモンシールだった。ただ当然貼られているシールには格差がある。お金持ちの子や親に言うことを聞いてもらえる子はシールが多く、比例してレアなシールも貼ってあった。ただもちろんいろんな事情があってシールを貼ることすら許されない、できない子供もいた。私は五枚だけ貼れていたのを今でも覚えている。両親に買って貰ったのが三回、幼稚園の運動会の景品で1回、地域のイベントで一回。あまりに嬉しすぎて覚えている。そこで私は謎の引き強を見せる。その五枚というのがラティオスライコウ、ブルー、ヒノアラシ、カブトこれもめちゃくちゃに覚えている。凄く大切にしていた。特にラティオスは水の都の護神が上映した年であったため、話題性含めそれはもう激レア中の激レアだった。

 

さてミナミ君とトシキ君はどうだろう。それはもう凄かった。特にミナミ君は水筒がそもそもポケモンの柄なのにその上からその柄が見えないくらい所狭しとシールが貼られていた。流石カーストNo.1である。それが当時の私にはかっこよく映ったためそれから遊ぶときは5枚だけシールが貼ってある水筒をからって遊んでいた。めちゃめちゃ邪魔だったと思う。そして私は自由時間はいつもトルネード滑り台を見ていた。だからサイアクサイテイを覚えているのかもしれない。ただ興味は滑り台ではなくミナミ君とトシキ君の水筒に貼ってあるポケモンシールだった。声はかけられなかった。照れ臭かった。

 

そんなに毎日ジロジロと見ていると流石にミナミ君トシキ君も放っておく訳がない。彼らから声をかけてきた。「なに?」当たり前だ。毎日トルネード滑り台で遊んでいるのを監視されているのだから。そしてNo.1とNo.2だ。自信もたっぷり。その時私は始めて気づいた。確かにずっと眺めているの変だな。遅い。それと同時に泣かされるという恐怖の感情が芽生えた。遅い。とりあえず「ごめん。」と言った。命乞いだ。

完全に泣かされると思っていたが裏切られた。ミナミ君の返答は「え!?ラティオスじゃん!」だった。続けて言う「交換しない!?」今思うととんでもなく厚かましい奴だ。ただ当時の私はただただビビっていた。少し間が空いてから彼は言うのだ「俺の水筒の5枚好きなのとっていいからさ!なんでもいいよ!」と。その条件が出た時点で「いいよ」というつもりだった。ずっと彼らを覗いていたのはシールを見たいだけだった。まさか好きなものと交換できるなんて思っても見ないチャンスだった。ただ私はミナミ君とトシキ君にほんとにビビっていたため、さらに黙ってしまった。すると彼は「8枚じゃダメ?」というのだ。今書きながらでも思う。8枚。やはり彼はNo.1なのだ。器がでかい。しかもただの8枚ではない。彼が選ぶのではなく私の自由で選んで良い8枚なのだ。確かにラティオスがもったいないなという感覚はあったが、なにより当時の私は数が欲しかった。理解していただけると思うが、子供の頃親戚にお年玉を5000円札で貰った際、1000円札5枚に親に両替して貰ったはずだ。1万円貯まろうが2万貯まろうが私は全て1000円に両替して貰った。物の価値が違うので例えとして完璧ではないが、とにかく私はあっさりその条件を飲みラティオスと8枚で交換した。

ポケモンシールと言えばポケモン本体が描かれているシールとポケモンの名前がかかれているシールの二組にわかれているのはご存じだろう。「ラティオスの名前だけ残してくれないかな?」と私は提案したが、ミナミ君が明らかにムッっとしたため、すぐに名前シールも差し出した。

 

※余談だが、この記事の読者にはすでにお年玉をあげる立場のお兄さんもいると思う。私もそうだ。私は5000円あげる際、わざわざ100円50枚に銀行に両替して貰っている。そして100均で貯金箱を買い、その貯金箱を100円玉50枚でギッチギチにして渡している。小さなお子さまの場合ただ「ほい」と紙一枚で渡すより何百倍も喜んでくれるのでやってみてはいかがでしょうか。

 

それからミナミ君とトシキ君とはちょこちょこ遊ぶようになった。凄く優しくてなにより強いかっこいいお兄さんという感じだ。私は当時ポケモンのゲームはしたことがなかったため、サトシの手持ちとアニメに出てくるポケモンの知識しかなかった。トシキ君は金銀をプレイ済みでポケモン博士だった。トルネード滑り台の使用許可もそれほど時間はかからなかった。三人で滑ることもあったが、彼らは相変わらずサイアクサイテイと言っている。なにか私も続いて言った方が...なんて思っていたが、彼らのサイアクサイテイは止まらない。ひっきりなしなのだ。私が付け入る隙などなかった。

ただ交換した8枚のポケモンのうちピカチュウフリーザあとヒトカゲは覚えているが、残りの5枚はなにを選んだのか覚えていない。伝説のポケモンをもう少し選んだはずだが...

理由はわからない、きっと思い入れの有無だと思う。後悔はしていないが、思い出せないシールを思い出そうとすると何となく切ない気持ちになる。

そして彼らは私より一年先に卒園した。

 

彼らと同じ小学校に私も一年後進んだ。しかしほとんど話もしてないと思う。何となく気まずいあれは一体なんだろうか、ちょうどstand by me のオチ。まさにそれだ。

 

現在、ミナミ君は連絡先は持っていないものの彼の実家は私が住む町とおなじなので、ごく稀に会うことがある。今は小学生の時の気まずさはなく、あのときと同じお兄さんという感じ。ただ変わったのは彼は幼稚園の時、身体的にも存在感も圧倒的に上だった。頼れる兄貴!というイメージがあるだけに私の方が身長が高いのいうのは未だに不思議な気持ちになる。トシキ君は今東京で働いているという話も聞いた。ミナミ君本人は歯医者になるために一年半前まで中国にいたらしい。話し方も落ち着いていて、ガキ大将というより知的な印象だ。変わったのは身長の上下関係だけで雰囲気はあの頃の頼れる兄貴まま。ただただかっこいい。

 

少し話は遡って私が高校3年になるときランニングをしているとミナミ君にばったりあったことがある。幼稚園ぶりにゆっくり話す時間が出来たので、始めて聞いてみた。

「あのときのサイアクサイテイってなんやったんですか?」と。

ミナミ君は「そんなことあったっけ!?」とめちゃくちゃ爆笑していた。サイアクサイテイの意味や真相は完全に迷宮入りだ。

 

ただ私とポケモンシールを交換したことは覚えていてくれたらしく、「流石に8枚はしんどかったわ!」と笑って答えてくれた。今も昔も大好きで尊敬できる先輩である。