木の実と角とわたしの旅⑦

 

Mr.Children。私が1番好きな歌手だ。中学一年生からのファンであるため10年ほど彼らの音楽に触れている。私が1番好きな曲は意外かもしれないが『名もなき詩』である。彼らの曲の中でもTOP5にはいるほど有名な曲ではあるが、何だかんだでこの曲が好きだ。彼らの9枚目のオリジナルアルバム『Q』はこれまで19枚出しているオリジナルアルバムの中でも異彩を放っている。ダーツで曲のテンポを決めたり、くじ引きでコードを決めたりと彼らの遊び心が盛り込まれたアルバムだ。またNOT FOUNDという桜井自身が最高傑作のひとつと語る曲も収録されており、ファンの中では人気の高いアルバムになっている。ただ私は最近までこのアルバム特有のクセがあまり得意ではなく、むしろ嫌いなアルバムだった。その『Q』の9曲目に『ロードムービー』という曲が収録されている、私も含め、多くのファンがただのアルバム曲としか捉えていなかった。ただ数年前のラジオで桜井はロードムービーが自身の作詞家人生での最高傑作と答えた。その日以降私を含めた多くのファンが『ロードムービー』を一気に評価し始めた。言葉の調味料は本当に恐ろしい。感じたものに対して自信を持つことは非常に難しいことだ。

 

 

 

 

京都高島屋についた。入ってからの印象は「すいてるな。」だった。これまでとんでもない人混みにまみれていたということもあるだろう。だがそれにしたってすいていた。京都のショッピング事情は詳しくないが、少なくとも同じポケモンセンターがある博多のAMUが圧倒していた。すぐにはポケモンセンターに行かなかったと思う。せっかくなので京都高島屋を一応ぐるっと見て回った。角助は大分クールダウンしていた。そしてついにポケモンセンターにつく。「おぉ!」とはならなかった。言い方は悪いが、「どこも一緒なんだな」というつまらない感想だ。ただポケモンセンターであることには変わりはないのでテンションが上がらないわけではない。しゃべるぬいぐるみや、ポケモンの生活を切り取ったちょっとしたジオラマ、誰が買うんだろうというようなシャツ。何だかんだ楽しい。うい君と私がポケモンカードを見ているといつの間にか角助がいない。探すと彼はぬいぐるみコーナーにいた。彼は葛藤していた。マッシブーンのぬいぐるみを買うかを。

 

そのぬいぐるみは顔ほどのの大きさで手足にはワイヤーが入っており、自由な角度で曲げられるそんな設計だった。人型に近いポケモンならではの設計だ。当時彼は高校三年生、バイトもしていないのでそのぬいぐるみひとつ買うのも大きな決断だろう。買ってあげても良かったが、うい君もいるしという小物全開の心の揺らぎが起きていた。ただ私ならそれは買わないなという確信はあった。よりによってなんでそれなん。とは思ったが、さすがに口に出すのはナンセンスなのでグッとこらえた。かなり時間がかかりそうだったので私とうい君はまたポケモンカードのコーナーに戻った。3パック以上買うとプロモカードが貰えるということで買っちゃおうかなんて話をしていると角助がポケモンセンターの袋をもってこちらに近づいてきた。取り出して嬉しそうに「ほら!」とマッシブーンを見せてくる。マッシブーンでなければ可愛かったが、マッシブーンだった。

とりあえずポケカは買うとして、京都限定のグッズをなにか買おうとしたが、結局ポケカ以外は買わなかった。最年少の角助が1番お金を使っていた。

 

その後地下にあるレストランが並んでいるところでなにを食べるか。なんて話していた。ラーメンを食べることにした。それなりに混雑していて、すぐには中に入れなかった。うい君、角助、私というように店の外にあるお待ちの席に一列で座った。三人とも正直へばっていて会話もあまりなかった。ひとつ印象的なのがなぜか角助がiPhoneの設定画面を開いていた。app storeの登録名が丸見えだった。そのとき私は角助の名前を知ってしまう。
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角助というキグルミのファスナーを下ろしてしまったのだ。中身は普通の人間だった。オードリー春日が春日を演じているように角助は角助を演じてくれていたのだ。春日の中身は普通の春日俊彰だ。それはわかっている。角助の中身も普通の人間だ。それもわかっていたが、突き付けられると寂しくもあった。

 

店員さんに招かれようやく順番が来た。普段は豚骨ラーメンしか食べない私は、その茶色のスープのラーメンに胸を躍らせた。曖昧な記憶だが、京ラーメンだったと思う。三人ともメニューの1番上にかいてある普通の京ラーメンを注文した。ラーメンということもありすぐに出てきた。「和」これに尽きるような味だったと思う。出汁がうまい。そこでうい君が「麺うまいな!」と言ったことを覚えている。そこから私は出汁より麺がうまく感じた。

ラーメンはめちゃくちゃにうまかった。ただ一杯900円くらいしたと思う。福岡、特に長浜系のラーメン店であればラーメン餃子ご飯までいける値段だ。その瞬間豚骨を食べた後の口のベタつきが何となく恋しくなった。

 

そしてついに角助の家へと向かう。バスと電車を乗り継いで、最寄りの駅まで着いた。そこからは当然歩いていくのだが、道中の風景はバシャバシャ写真を撮った。いつか使えると思ったが、さすがに使えない。10分ほど歩くと角助が「ここ曲がると」という。細い路地にはいってもう3分ほど歩くと「ここ」という。まさに学生の独り暮らしの家という感じだった。内装は非常にきれいで普通に良い部屋だった。3分もかからないところにコンビニがあるというので飲み物でも買いにいこうということになった。

 

その時角助が「お酒は買うなよ」とうるさく指摘してきた。当時彼は未成年でごみの日にそれを出すことが憚られたらしい。うい君も私もお酒飲みたいなど一言も言ってないのに口うるさく言ってくる。せっかくの3人の旅行、1人でも飲めない奴がいる時点で飲むことなんて考えてもいない。「わかった」といっても「買うな」と言ってくる。もはやキレていた。彼はなににキレていたのだろう。

 

周辺道路は人気は多いとは言えなかった。ただそんなことは男1人が住むにはなんの支障もない。コンビニに行く途中ひとつだけ信号機がある。車一台しか通れないほどの道路のくせして信号機が置いてあるのだ。そんな道路もちろん横断歩道は短い。夜ということもあり車もほとんど通っていない。そんな信号機歩行者は誰も守らない。ほとんどの人が無視していた。私もその例外ではない。

 

唯一守っていた男がいた。お酒買うなマンだ。信号無視をしている人間が偉くものを言える立場でもないので深く言及はしないが、あの短い横断歩道をみんなに見て貰いたい。罪を犯さざる得ない。

 

角助は本当にピュアで真面目な男だということを理解していただきたい。

木の実と角とわたしの旅⑥ 記憶の欠片

 

このブログは何も練ることなくその場で思い付いた記憶を便りにかいている。抜け落ちることもある。あんなこともあったなと後日思い出したとしても、スルーしているが、これだけは書いておきたかった。

 

 

龍安寺に向かう際、歌い手がどうとかボカロがどうとかそんな話の流れだったはずだが、ぱにょの話になった。

 

ぱにょを知らない人のために雑に説明すると18歳未満の女性ファンを孕ませちゃった歌い手である。そこから18歳未満の女の子とやっちゃったことを「ぱにょった」と表現するようになったり、彼が逮捕された際に供述した「やばいと思ったが、性欲を抑えきれなかった。」はあまりにも有名。またファンが描いたイラストと報道された顔とが余りにかけ離れていたことも大きくネットを賑わせた。

 

私は特に深い意味もなく、角助に対して「ぱにょに似てないか?w」と言った。このときの私はそもそもぱにょがどんな顔だったかすら覚えていない状態であり、女子高校生とやった男という部分にフォーカスを置いた冗談のつもりで言った言葉だった。(角助は恐らくDTであるが)

 

そのとき角助がかなりへこんでいたのを覚えている。ネットでぱにょの顔を調べて一段とへこんでいた。最初はうい君も「似てるわー」と適当に乗ってくれたが、余りに角助がへこんだので、私と二人で「冗談よ!」と真剣に慰めた。話さなくなるくらい元気がなくなっていた。この件に関しては9割以上私が悪いと思う。ただここまでピュアだとは思っても見なかった。

 

そんな角助も枯山水を見る頃には元気になっていて安心したことを思い出した。

不良とわたし②-1

 

 

小学校に入学した。名札の色は青だった。色の理由は単純で1組だったからだ。2組は黄色、3組は赤だった。他の小学校の名札事情は知らないが、私の小学校は一年生だけクラスごとに色分けされていた。2年生以降は一律同じ名札が配られた。

 

入学してしばらくすると別の意味でクラスの「色」が出てくる。おとなしいクラスもあれば元気なクラスもあるし、真面目なクラスもあればやんちゃなクラスもある。その辺りは担任の先生が全て握っていると言っても過言ではないと思う。6歳から7歳の子供だ。影響受けまくりに決まっている。私の1年1組は真面目なクラスだった。ただ元気がない訳では決してなく、何事も一生懸命に取り組むそんなクラスだった。すごく良い先生だったと今振り替えって思う。3組は比較的大人しめのクラスだったと思う。のんびり屋さんが多いそんな印象だ。問題は2組だ。今考えても「わざとか?」と思うくらいやんちゃな子が集められていた。6年生になってもやんちゃな子は大体1年2組出身だった。それは1年生のときに受けた影響なのか、それともたまたまそういう人たちが集まったのか、はたまた学校の方針として集められたのか、考えてもわからないが、当時の私は2組の人間にびびっていた。だいたい喧嘩なんかも黄色の連中が原因だった。

 

2年生に進級した。クラスは持ち上がりだったのでそれぞれ変わることもなかった。だから2年2組はそのままやんちゃだった。2組は担任の先生、カセ先生も少しイカれていた。当時の流行と言えばたまごっちだった。品薄で買えない家庭もあった。

 

そんな大ブームが起きていたが、当然小学校にたまごっちを持ってくるのは禁止だ。こっそり持ってくるにしても当時のものは消音モード、サイレントモードのような音を消すということが出来なかったはすだ。しばらく放置していると「テッテーテレ♪」とたまごっちが私たちを呼んでくる。8歳の子供なんてみんなバカだ。分かってて持ってくる。たまごっちを持ってきて音がなる→没収→両親登場が毎日のように行われていた。そのせいでたまごっちを持つことすら禁止になった。既に持っている家庭では親が預かってほしいというプリントまで配布される事態だ。

たまごっち禁止令が出された翌日、2組でたまごっちが鳴ったというニュースが3時間目の授業の後流れてきた。2組とはいえそこまでのバカがいたのかと話を聞くとカセ先生のたまごっちだったらしい。その後カセ先生がどうなった、とか上の人から怒られたとかそういう情報はなかったが、3年生になる頃にカセ先生はうちの小学校からいなくなった。

 

そして3年生はじめてのクラス替えが行われた。当然ごちゃ混ぜだ。私は3年2組になった。2年2組怖い人ユーダイ君も同じクラスだった。幸い2年2組から3年2組に来た悪はユーダイ君くらいだった。

心配をしていたが、ユーダイ君は良い奴だった。出席番号が前後だったので席も前後、話す機会も多く、すぐ仲良くなった。

 

皆さんはどうかわからないが、一人称が「ぼく」から「おれ」になるのは3年生くらいでは無かろうか。そしてお友だちの名前を呼び捨てにするのも同じ頃ではなかろうか。小物の私は一律で呼び捨てにすることは出来なかった。呼び捨てにするお友だちもいればそうじゃない人もいる。そしてユーダイ君を呼び捨てにするなんてもっての他だった。

 

夏休みが明ける。私の学校は2学期制だった。前期と後期というわけ方だ。皆さんも学校もそうだったと思うが、学期が変わると委員会や係活動が変更になる。合わせてクラスの掲示物も切り替わる。誰がどの委員会なのか、係なのか、後期の日程表、クラスの目標などなど班ごとにを割り振られ模造紙に書き込んでいく。(1班は委員会表、2組は係表、3班は日程表...という具合に)班は座席ごとに決まっていた。すでに席替えは何度か行われていたため、出席番号順というわけではなかったが、たまたまユーダイ君と同じ班だった。私もユーダイ君も字が下手だったのでほとんど同じ班の女の子に模造紙に書く作業は任せていた。わたしとユーダイ君は周りに星をあしらう仕事を女の子に任されていた。女の子の方は順調に作業が進んで半分ほど終わったとき「もーwユーダイ君雑ぅーー!w 星下手ー!w」同じ班の女の子がユーダイ君に言った。ユーダイ君も女の子もヘラヘラ楽しそうだった。加えて女の子がいう「見てよにはたくんの結構うまいよ!」ユーダイ君も女の子もにはたもヘラヘラ楽しそうだったと思う。そんな和やかな雰囲気で作業も終わった。

 

そして私はその完成した模造紙を掲示するために机に乗った。その日の私は何となくユーダイ君に勝った気がしていた。理由はもちろん私の方が星がうまいからだ。行けると思った。だから「ユーダイ、そ画ビョウ取って!」掲示するためだ。当たり前の会話だ。ユーダイ君は素直に画ビョウを渡してくれた。少し斜めにはなったがなんとか掲示することができた。机から降りる。降りた途端ユーダイ君がこちらに近づいてくる。

「呼び捨てされる筋合いはないけどな。」

怖かったのでなにも言えなかった。翌日にでも、謝ろうと思ったが、それ以降はなんともなく普通に仲良しだった。だが心のモヤモヤは2ヶ月ほど消えなかった「あぁ...もと2組の連中にチクられて、ボコられたらどうしよう。その日がいつ来るんだろう」と。

 

今振り替えるとユーダイ君なりの冗談だったのだろう。そんなことで怒る奴ではないと今の私は言える。その後ユーダイ君をユーダイと呼べるようになったのは小5になる頃だ。

 

           続く

 

 

木の実と角とわたしの旅⑥

 

旅行は妄想するだけしといて案外当日の記憶は残っていないものだ。修学旅行もめちゃめちゃ楽しかったのは覚えているが、細かいスケジュールは案外覚えていない、思い出せないという人も少なくないはず。

逆に修学旅行といえばこれという決定的な事件は明確に覚えているはずだ。ずっと好きだった女の子と付き合ったあいつ、移動中ゲロ吐いたあいつ、 普段はそんなに目立たないのに修学旅行のせいかハイになってちょっと面白かったあいつ。そういうなにか大きな出来事があるからこそ、それ以外の事は覚えていないのかもしれないし、あんなに楽しかったこと忘れないと思っていても人間の記憶なんてその程度なのかもしれない。「逆になんでそれ覚えとるん?」という記憶もある。

私の高校の修学旅行の目的地のひとつにディズニーシーがあった。インディ・ジョーンズのアトラクションの待ち時間大学生の男女グループに絡まれた。こてこての関西弁でどこから来たのか、年齢、女の子はおらんの?などなどお話ししていた。お姉さんのピチピチのニットがエッチだった。いくつかやり取りしたあと「部活とかなにやってんの?」と聞かれた。すると一緒にディズニーシーをまわっていたサッカー部ミウラが「野球部です!」と答えた。意図が全くわからなかったのでとりあえず「いやサッカー部やん」と私がいうと「あ、そっか」とちょっと笑いながらミウラが答えた。ピチピチニットのお姉さんが「なんか滑ったな」と鋭い言葉を放って会話はそれ以降なかった。関西人からみてそのやり取りは不合格だったのだろう。なにより未だにミウラがなにを狙って野球部という嘘をついたのか、ボケなのか、天然なのかはわかっていない。本人に聞いても「そんなことあったっけ?」と答える。とぼけているのかわからないが、とにかく私の高校時代の修学旅行の記憶といえばこれだ。

 

 

そしてうい君と角助との旅行だが、三人集まった後、京都バス乗り放題のチケットを買った。角助が私が財布を取り出すのをじっと見ていたのを覚えている。学生証が見えないかと期待していたらしい。丸見えだった。結果そこで私は二人に大学がばれてしまった。(皆さんはオフ会をする際、その辺の管理はしっかりしておきましょう。)

ただ、それからすぐどこに行ったのかすら覚えていない。清水寺だったか、ただ清水寺に角助がいた記憶がないのだ。2日目あるいは3日目にうい君と二人で行った気がしないでもない。それか単純に角助の存在感が薄かったのか、予告しておくが、旅行中は角助の出番は少ない。

 

初日、龍安寺に行ったのは覚えている。時間的には夕方だったのでどこかへ行って龍安寺にいったはずだが...

 

バスで龍安寺の近くまで行った。うい君に「普段なにしてんのにはたくん」そんな会話をしていた。当たり障りないなと思われるかもしれないが、出会ってから1時間ほど、そんなものだろう。「バイトばっかやね。夏休みなんか時給800円なのに給料16万になったわw」二人にドン引きされたのを覚えている。うい君「そんな稼いで何に使うん笑」...そんな普通の会話だが、普通の会話をするためにパーソナルな情報が少しでもあるとどれ程楽かを実感した。今回の場合「私のバイト」という共通の話題が前もってあったため良かったが、あのバイトの話がなかったら、どんな話をしていただろう。

 

龍安寺の近くには「あの」立命館大学があることを知った。角助がやたらはしゃいでいた。いつもに増して早口だった。バシャバシャ写真も撮っていた。彼はその写真を使ってなにか企んでいた様子であったが、その写真を使った大きな動きは今日まではない。2年なにもない。

 

龍安寺についた。さすが人気スポット。とんでもない人だ。あちこちでいろんな言語が飛び交っている。入場料を払って中にはいる。土足で中にははいれないので靴を脱いではいる。靴はみんな共有の靴箱にいれる。鍵もないし一人一人分けられているわけでもない。でっかい本棚みたいな奴。寺の中はするするとまわるつもりだった。当時の私は罰当たりで龍安寺の寺の中などどうでもいいと思っていた。庭だけのお寺だと思っていた。私の悪いところだ。結局お寺の中の小さな仏像や襖絵、でっかい習字。圧倒的に私の語彙力が追い付いていないが、とにかく興味深いものばかりだった。「○○ができた背景、歴史」だとか「作品の説明」などが書かれている立て看板は結局全て読んでしまった。うい君角助も同じようにくまなく龍安寺を堪能していた。

 

そんなこんなで夢中になっていると日本史の教科書で見たことあるあの風景が広がっていた。枯山水だ。群がる人の多さは圧倒的だった。私に芸術的センスはないので正直よくわからないが、きれいということはわかった。小学生並みの感想だ。うい君と角助はバシャバシャ写真を撮る。私は普段からあまり写真を撮らない。撮っても見返さない性格なので無駄だと思って撮らない。旅行から帰って来て友人にどこ行ったん?と聞かれた際、写真があればと思うことはしょっちゅうだ。まぁまぁ後悔する。撮ればいいのにと自分でも思う。撮ろうかなとその時もよぎったが、必死なカメラマンの二人を見てやめることにした。

ほどほどに龍安寺を出ることにした。私やうい君角助はもちろん、みんな当たり前に本棚みたいな靴箱から自分の靴を取って、履いて外へ出る。靴が盗られたなんて誰も騒いでない。なんて良い国だ。そして書きながら思う。お気づきの方もいるかもしれないが、会話はほとんどない。そんなものなくても京都の観光は捗りまくる。自国の日本人ですらここまで夢中になるのだ。外国人なんてどうなるだろう。日本に来た外国人観光客がうるさいだのマナーがどうだの問題視されているが、高ぶる気持ちもわからなくはない。

 

龍安寺の後京都のポケモンセンターに行くことにした。一旦京都駅行きのバスに乗りそこからポケモンセンターがある京都高島屋に向かうという流れだ。(現在ポケモンセンターは移転したらしい)夕暮れ時ホテルに引き返す観光客でバスは大混雑だった。なにより鬱陶しいのが観光向けのバスなのでみんな荷物が多い、乗れる面積も普段より限られてくる。

 

満員のバス。皆さんもバスはないにしても電車なら経験があるはずだ。通勤の時間帯で考えてもらって良い。加えてその状況で目の前が優先席、しかも空いている優先席という状況を経験したことがある人も少なくないはずだ。優先席に躊躇なく座れるという人も少なからずいるが、基本的には優先席は空けておくというのが暗黙のルールになっている。ただギッチギチのシチュエーションだけは別だ。座った方が迷惑がかからない。なんなら楽になるひとの方が多い。そういう場合に限っては背徳感を感じつつも優先席に私も座る。

 

私はその考えに基づきうい君と優先席に座った。角助は立っていた。これは年上の権力を振りかざしたのではなく、角助が俺は良いというような感じで頑なに座らなかった。バスの最前列の椅子だ。こんなに丁寧に振ったのだ。なにが起こるかお察しの通りだ。座ってから3分ほどしてから40代後半位のおばさんから声をかけられた「あなたたちが座るような椅子じゃないでしょ?」おばさんは決して間違えてはいない。しかし状況的にみんな身動きが取れないのだ「どうしよう」なんて考えていたが、うい君の対応ははやかった「すみません。」大人だった。すぐ席から動いた。私もつられて動く。「そのおばさんが座るのかな」きっと私、うい君、角助、そしてその周りの人全員がそう思っていたに違いない。おばさんは乗り口の扉付近に向かって「せきあいたよーーーぉ!!」とまぁまぁの声で言うのだ。先述の通り最前列の席での出来事。人を無理矢理掻き分けて別のおばさんが出てきた。そして二人で仲良く座る。そのおばさん二人以外全員迷惑そうな顔をしていた。そのあとおばさんに「優先席なんだから、気を付けてね」と念を押された。さすがにピキっと来たが、「きっと車内全員が味方だ。」と言い聞かせてその感情を収めた。

 

しばらくして京都駅についた。そこから乗り換えて京都高島屋まで15分ほどかかった。そのバスではなんとか座れた。何だかんだ昼に出会ってからそこまで立ちっぱなしだった。バスの心地よい揺れでもう寝てしまいそうだった。街の風景なんかも旅行のひとつの楽しみではあるが、眠たかったことしか覚えていない。ポケセンは三人とも行きたい場所のひとつだったが、角助が1番行きたがっていた。そのためか移動中明らかにワクワクした角助の顔だけはよりにもよって焼き付いている。

1番行きたかった場所に行くことにワクワクすることは全く悪くないし、むしろ当たり前のことだ。可愛げだってある。ただこの旅行で「逆になんでそれ覚えとるん?」の記憶といえばこれだ。

 

記憶の欠片へ続く

 

 

木の実と角とわたしの旅⑤

 

 

旅行の計画を立てたのが3月10日、旅行の日程は26日に決まった。個人的にあるあるなのだが、こういう先の日程を決めると、それまでの期間その相手とはお話をすることがなくなる。私からだけでなく相手からもだ。今回の場合も二週間ほど空きの期間があったわけだが、この期間うい君や角助と話すことは0とは言わないが、明らかに減った。あれはなんなのだろう。話溜めとこうというなんていう考えが潜在的に働くのだろうか。

とにかく26日  昼  京都集合ということだけしか決まらないままその日を迎えた。

 

そして26日黄色のスーツケースに三日分の服と3DSだけ詰めて家を出る。博多までは行き慣れたものであるが、新幹線とはなると話は別だ。駅員に助けてもらってなんとか乗り場までたどり着けた。博多が始発だったので出発の15分前くらいには新幹線が来た。隣に人が座ることはなかったが、後ろの席におじさんとおばさん。おばさんは特になにもなかったが、おじさんがそわそわしていた。「うわぁ...クレイジーな人かな...」全員感じたことがあるだろう。電車に乗ったときアレの人が乗ってきたときの緊張感。発車するとそのおじさんは我慢できなかったのか

「おおぅ、はやいな!新幹線は!今の新幹線は速いな!」

私は寝ることを決意した。絡まれたくない。寝れないにしても寝たふりはマストだ。ただ後ろはクレイジー、リクライニングなんてもっての他、「眠れないなぁ。眠れないなぁ」と上手い寝る形を作るためボソボソと動くが、直角の私は結局眠ることはできなかった。幸いおじさんに大きな動きはなかった。ちょこちょこ角助から来るDMに返信していると京都駅についた。博多から3時間もかかっていない。つい心のなかで思ってしまった。

「おおぅ、速いな!新幹線は!」

 

移動中三人のグループでやり取りしているわけだが、うい君が全然出てこない。角助と私二人だけで「飯食った?」何て会話をしていた。寝坊したのかと心配したがそうではなかった。

「頭痛薬飲むために飯食った」

当時は本当に焦った。最初はやっぱりうい君の心配だ。「とりあえず休みたい」うい君が京都についたときのDMだ。どうやら結構な頭痛らしい。京都に降り立ってとりあえず休みたい奴なんて相当具合悪い奴しかいない。普通はみんなはやく清水に行きたいのだ。その感情さえも抑え込む程の頭痛。もしぶっ倒れたらどうしようか、本名も知らないわけだし、もし何かあると大変なこと、ややこしいことになるのでは?何て思っていた。

二つ目は仮にうい君がリタイアした際のこの旅行だ。申し訳ないが、角助との2人旅は正気の沙汰ではない。もしそうなった場合、私も原因不明の激しい頭痛に襲われるだろう。

 

「とりあえず休みたい」からうい君の返信が途切れたため、とりあえず角助と私で待ち合わせることに、「黄色いスーツケースで来てるから探してみて!目立つと思う!」と連絡する私に対し、「あ、俺ポリゴンのぬいぐるみ持ってるから」とコントのように答える角助。

やめてくれ。京都駅でポリゴンぬいぐるみを持ちながらうろうろしないでくれ。春の京都は人でごった返していた。とにかく探さねばとキョロキョロしていると、青年の視線を感じる。確認できないが手には赤と青のなにかを持っている。

 

あ、あれだぁぁぁぁぁぁぁぁぁ

 

青年もこちらに気づいたらしく、歩み寄ってきた。「ポリゴンです。」

期待はずれというとは失礼だが、ぬいぐるみ持っていること以外普通の好青年だった。

「にはたです。シザリガーです。」

私の方が圧倒的に緊張していたのではなかろうか。しばらく間が空いた後「ならうい君探しに行こうか」と私がいうと「う、うん」と角助は答えた。やっぱり角助の方が緊張していた。

 

ありがたいことにその会話の後すぐうい君から返信が来た。もし返信がなかった場合、角助との二人の時間がただ流れていくことになる。ゾッとする。

「ベンチで寝てる。風当たって大分楽になったから、新幹線改札口で会おう。」

そんな返信だったと思う。角助と「あいつやべぇな」とか二人で笑いながらうい君のもとへ向かった。

 

それからしばらくしてうい君とも待ち合わせた。うい君も普通だった。というより恐らくみんな普通なのだ。ただTwitterというフィルターを通して普段私がリアルで接している人とは少し違った人というようなずれた認識をしていただけのようだ。

なにより驚いたのがというよりムカついたのが、うい君がめちゃめちゃ元気なのだ。軽く挨拶をすませると、「じゃああそこバス乗場あるからあそこで~」「とりあえず清水でいい?」なんて無茶苦茶元気に仕切る。倒れたら...なんて無駄な心配で精神をすり減らしたが、とにかく無事でよかった。

 

三人の旅行が始まった。

 

 

 





 

 

 

不良とわたし①


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前回の記事で書いたように私はひ弱な人間である。特に小学四年生までは引っ込み思案な性格もあり友達も少なかった。当たり前だがやんちゃな同級生にはほんとにビビっていた。ただ避けても避けられないこともある。今回は私の幼稚園でのお話。

 

私の幼稚園は田舎にあるのでグラウンドがアホみたいに広い。というより通っていたのが幼稚園から高校までずっと田舎だったので、都会特有の運動会や体育祭を学校以外の他の施設を借りて行うなどということを経験したことがない。自由時間は当然そのアホ広いグラウンドで遊ぶ。

当然のことだが幼稚園は小学校や中学校に比べて遊具が充実している。ただ何せ私の通う幼稚園はグラウンドがアホ程広いので遊具も幼稚園とは思えないほど充実していた。椅子が変に豪華なブランコ、汽車を模したアスレチック、SASUKEの奴を持ってきたのかと疑う長さのうんてい、どう遊ぶかわからない馬の乗り物、砂漠みたいな砂場、鉄棒は30個は越えていた。他にもまだまだあったが、その中でかなりの人気を誇っていたのがトルネード滑り台だ。ソフトクリームのような形をしており、くるくると回りながら滑り落ちていく。想像してほしい。明らかに楽しいのだ。まして3歳から6歳の子供何て笑いすぎておしっこ漏らしてしまうだろう。

 

幼稚園にもカーストというものは存在する。その中のトップに君臨するのがガキ大将という奴だ。私が年中さんになった頃、トルネード滑り台はガキ大将2人によって占拠された。ミナミ君とトシキ君だ。彼らは年長さんで身長は少し大きい程度だった。ただなにより力が強かった。彼らに歯向かう者はその圧倒的なパワーを振りかざされ、当然のように泣かされていた。先生の言うことも聞く様子はまるでなく、諦められていたという感じだ。だからトルネード滑り台が彼らから奪還されることはなかった。彼らは二人で毎日のようにトルネード滑り台を滑っては登り、滑っては登りを繰り返していた。

 

今も鮮明に覚えている。その日もいつも通りミナミくんとトシキ君は滑り続けていた。彼らの滑りのスタイルは二人同時だ。ミナミ君が滑ると追いかけるようにトシキ君が後ろから滑る。ただなにより覚えているのが、彼らは滑り落ちる際

 

「サイアク、サイテイ、サイアク、サイテイ、サイアク、サイテイ、サイアク、サイテイ」

 

と言い続けながら二人で滑り落ちていく。パート分けをするとミナミ君が「サイアク」、トシキ君が「サイテイ」パート。二人で交互にサイアクサイテイと掛け合いながら滑り落ちる。滑り終わるとピタッとその掛け合いをやめてまた上へと登っていく。

幼稚園での1番の記憶と言えばこれなのだ。なぜか忘れられない記憶というのは誰しもあると思う。私の場合はこれだ。

 

そんな二人であるが、いつも水筒をぶら下げて遊んでいた。そしてその水筒にはポケモンパンのデコキャラシールが貼られていた。当時私の幼稚園では大流行していた。男の子女の子関係なくみんな水筒にはポケモンシールだった。ただ当然貼られているシールには格差がある。お金持ちの子や親に言うことを聞いてもらえる子はシールが多く、比例してレアなシールも貼ってあった。ただもちろんいろんな事情があってシールを貼ることすら許されない、できない子供もいた。私は五枚だけ貼れていたのを今でも覚えている。両親に買って貰ったのが三回、幼稚園の運動会の景品で1回、地域のイベントで一回。あまりに嬉しすぎて覚えている。そこで私は謎の引き強を見せる。その五枚というのがラティオスライコウ、ブルー、ヒノアラシ、カブトこれもめちゃくちゃに覚えている。凄く大切にしていた。特にラティオスは水の都の護神が上映した年であったため、話題性含めそれはもう激レア中の激レアだった。

 

さてミナミ君とトシキ君はどうだろう。それはもう凄かった。特にミナミ君は水筒がそもそもポケモンの柄なのにその上からその柄が見えないくらい所狭しとシールが貼られていた。流石カーストNo.1である。それが当時の私にはかっこよく映ったためそれから遊ぶときは5枚だけシールが貼ってある水筒をからって遊んでいた。めちゃめちゃ邪魔だったと思う。そして私は自由時間はいつもトルネード滑り台を見ていた。だからサイアクサイテイを覚えているのかもしれない。ただ興味は滑り台ではなくミナミ君とトシキ君の水筒に貼ってあるポケモンシールだった。声はかけられなかった。照れ臭かった。

 

そんなに毎日ジロジロと見ていると流石にミナミ君トシキ君も放っておく訳がない。彼らから声をかけてきた。「なに?」当たり前だ。毎日トルネード滑り台で遊んでいるのを監視されているのだから。そしてNo.1とNo.2だ。自信もたっぷり。その時私は始めて気づいた。確かにずっと眺めているの変だな。遅い。それと同時に泣かされるという恐怖の感情が芽生えた。遅い。とりあえず「ごめん。」と言った。命乞いだ。

完全に泣かされると思っていたが裏切られた。ミナミ君の返答は「え!?ラティオスじゃん!」だった。続けて言う「交換しない!?」今思うととんでもなく厚かましい奴だ。ただ当時の私はただただビビっていた。少し間が空いてから彼は言うのだ「俺の水筒の5枚好きなのとっていいからさ!なんでもいいよ!」と。その条件が出た時点で「いいよ」というつもりだった。ずっと彼らを覗いていたのはシールを見たいだけだった。まさか好きなものと交換できるなんて思っても見ないチャンスだった。ただ私はミナミ君とトシキ君にほんとにビビっていたため、さらに黙ってしまった。すると彼は「8枚じゃダメ?」というのだ。今書きながらでも思う。8枚。やはり彼はNo.1なのだ。器がでかい。しかもただの8枚ではない。彼が選ぶのではなく私の自由で選んで良い8枚なのだ。確かにラティオスがもったいないなという感覚はあったが、なにより当時の私は数が欲しかった。理解していただけると思うが、子供の頃親戚にお年玉を5000円札で貰った際、1000円札5枚に親に両替して貰ったはずだ。1万円貯まろうが2万貯まろうが私は全て1000円に両替して貰った。物の価値が違うので例えとして完璧ではないが、とにかく私はあっさりその条件を飲みラティオスと8枚で交換した。

ポケモンシールと言えばポケモン本体が描かれているシールとポケモンの名前がかかれているシールの二組にわかれているのはご存じだろう。「ラティオスの名前だけ残してくれないかな?」と私は提案したが、ミナミ君が明らかにムッっとしたため、すぐに名前シールも差し出した。

 

※余談だが、この記事の読者にはすでにお年玉をあげる立場のお兄さんもいると思う。私もそうだ。私は5000円あげる際、わざわざ100円50枚に銀行に両替して貰っている。そして100均で貯金箱を買い、その貯金箱を100円玉50枚でギッチギチにして渡している。小さなお子さまの場合ただ「ほい」と紙一枚で渡すより何百倍も喜んでくれるのでやってみてはいかがでしょうか。

 

それからミナミ君とトシキ君とはちょこちょこ遊ぶようになった。凄く優しくてなにより強いかっこいいお兄さんという感じだ。私は当時ポケモンのゲームはしたことがなかったため、サトシの手持ちとアニメに出てくるポケモンの知識しかなかった。トシキ君は金銀をプレイ済みでポケモン博士だった。トルネード滑り台の使用許可もそれほど時間はかからなかった。三人で滑ることもあったが、彼らは相変わらずサイアクサイテイと言っている。なにか私も続いて言った方が...なんて思っていたが、彼らのサイアクサイテイは止まらない。ひっきりなしなのだ。私が付け入る隙などなかった。

ただ交換した8枚のポケモンのうちピカチュウフリーザあとヒトカゲは覚えているが、残りの5枚はなにを選んだのか覚えていない。伝説のポケモンをもう少し選んだはずだが...

理由はわからない、きっと思い入れの有無だと思う。後悔はしていないが、思い出せないシールを思い出そうとすると何となく切ない気持ちになる。

そして彼らは私より一年先に卒園した。

 

彼らと同じ小学校に私も一年後進んだ。しかしほとんど話もしてないと思う。何となく気まずいあれは一体なんだろうか、ちょうどstand by me のオチ。まさにそれだ。

 

現在、ミナミ君は連絡先は持っていないものの彼の実家は私が住む町とおなじなので、ごく稀に会うことがある。今は小学生の時の気まずさはなく、あのときと同じお兄さんという感じ。ただ変わったのは彼は幼稚園の時、身体的にも存在感も圧倒的に上だった。頼れる兄貴!というイメージがあるだけに私の方が身長が高いのいうのは未だに不思議な気持ちになる。トシキ君は今東京で働いているという話も聞いた。ミナミ君本人は歯医者になるために一年半前まで中国にいたらしい。話し方も落ち着いていて、ガキ大将というより知的な印象だ。変わったのは身長の上下関係だけで雰囲気はあの頃の頼れる兄貴まま。ただただかっこいい。

 

少し話は遡って私が高校3年になるときランニングをしているとミナミ君にばったりあったことがある。幼稚園ぶりにゆっくり話す時間が出来たので、始めて聞いてみた。

「あのときのサイアクサイテイってなんやったんですか?」と。

ミナミ君は「そんなことあったっけ!?」とめちゃくちゃ爆笑していた。サイアクサイテイの意味や真相は完全に迷宮入りだ。

 

ただ私とポケモンシールを交換したことは覚えていてくれたらしく、「流石に8枚はしんどかったわ!」と笑って答えてくれた。今も昔も大好きで尊敬できる先輩である。

 

 

木の実と角とわたしの旅④

 

 

うい「んーオフ会でもする?」

 

意外にも切り出したのはうい君が切り出したのだ。

めちゃくちゃに緊張というか焦りというかパニックというか心臓がドクドクドクドクなったのを覚えている。

 

私は生まれつき環境の変化に弱い。「みんなそうやろ」とツッコミが聞こえてきそうだが、かなりの重症だと思う。人前にたつと手足が震える。立っているのがやっと、なんていうのは当然で、小学生の低学年までは環境が変わるとご飯もまともに食べられなかった。だから家族と外食に出掛けても一口くらいしか食べられなかった。旅行に行くときなんて行く前の日から嘔吐したりした。私は異常な舞い上がり症なのだ。

 

厳しい両親だったので「○○してほしい!」や「○○買って!」とわがままを言ったことはなかった。どうせ通用しないと子供ながらにわかっていた。ただ一度だけわがままというかお願いをしたことがある。小4の頃「野球がしたい」すんなりやらせてくれた。意外だった。野球クラブに入ると土日は試合であちこち出掛けるようになった。昼はおにぎりという決まりだった。半年くらい経つと、外でもなんとか食べられるようになった。慣れというのは怖い。ただ本当にあそこ(野球を始めた)が人生のターニングポイントだったと思う。食事に関してだけでなく性格や生き方含めて大きく変わった。もし自分が野球をやってなかったら...言葉で表現するのが難しい。とにかく今の私とは180度とは言わないが140度は違った人間だったであろう。「迷ったらやった方がいい、迷ったらYESだ!」というような言葉は聞きなれ過ぎてもはや言ってる奴が恥ずかしく見えてくるが、心の底から実感している。この辺の私の過去とか生い立ちとかも機会があればいずれ書きたいなと思う。

 

ただ、今も外に食事に行くときは緊張はする。友人と食事に行くときも「何を話そうか」とか「どんな人だろう」とかそういう緊張ももちろんするが、それに加えて「食べきれるかな、残すとなに思われるだろう」「恥ずかしいマナーを見せていないかな」そういう心配から生まれる緊張は今もしている。家族と食事に行くときでさえも同じような緊張をしている。綺麗に食べなくてはいけない。残してはいけないというのは変わらないから。

 

話は戻って、うい君の提案の後一瞬で様々頭を巡らせた。「どこいくのよ」「三人で?」「なに話すん」「顔見せるんかー」「てかそもそもネットで知り合った人間の会っていいの?」「どこで寝るん」「気まずいか?」「ぜってーポリめんどいじゃん」「飯どうするんだろ」「初対面緊張するわ」などなど

 

考えなくてもいいことまで考えてしまうのが私の悪いところだ。そのせいでしなくていい緊張までしてしまう。分かっていても考えてしまう。もう治らないという諦めもついている。 

 

今考え直すと。絶対楽しいのだ。行く前から決まっている。県外に遊びに行く。知らないところに行く。観光。なにより普段リアルでは深く話せないポケモンやゲームという共通の趣味を持った人間と遊ぶなんて楽しくないわけがないのだ。行く前から楽しいなんてのは確定事項だった。

ただその時の私は心臓がドクドクドクドクしているわけでネガティブなことばかり考えていた。冷静じゃなかった。とにかく、なんと言っていいか分からないので提案に対する答えは一旦角助の反応を見てだそうと思った。今は文章としてつらつら書いてあるが、当時は会話な訳でうい君の提案から2~3秒ほどしか経っていない。

 

しかし、こういうときの角助は役に立たない。

 

普段はベラベラと話すくせにこういう時のレスポンスは抜群に遅い。迷ったが

「いいねぇ~どこにする?普通に東京行きたいわ」と私は答えた。

「あ、やる?東京にすっかー」とうい君も答える。

そのあと角助が口を開いたが、なんと言ったかは覚えていない。ただ声が少し動揺のは覚えている。

 

集まるという方向であれやこれやと話していると角助が東京まで行くのは金銭的に厳しいということがわかった。当時彼は高校生、アルバイトもできないので仕方ない。ただ春から角助が関西圏の東進に通うということなので、角助の家から比較的近い京都を旅目的地にすることにした。

 

日程や目的地、何をするかなどはうい君が私と角助の予定や何をしたいかなどを聞きながら決めてくれた。意外とというと失礼だが、やるときはやる男なのだ。私や角助の交通手段まで一緒に調べてくれた。優しい。

彼のお陰でこの旅行は成功していると断言できる。

 

旅行の粗方の予定が決まる頃には朝の8時前すっかりどころではない程に日が昇っていた。

結局その日は4時半相応のボリュームから角助の声のボリュームは一度も上がることなく、下がり続けた。

流石にその日は私も疲れたのですぐ寝た。起きると外が真っ暗で絶望したことを鮮明に覚えている。